LGBTQ+「常識」を疑ってみる 中里虎鉄

《リアルな声》は当事者からしか聞こえない

この記事は約12分で読めます by 笠原桃華

ジェンダー、セクシュアリティ、LGBTQ+…。たくさんの新しい言葉が紹介され、近年は特にそれらを題材にしたコンテンツが制作されています。しかし、そうした作品全てが必ずしも当事者の視点を組み込んでいるとは言えません。
今回のインタビュイーは、自身の性を「ノンバイナリー」であると位置付ける中里虎鉄さん。フォトグラファーとしても活躍し、雑誌『IWAKAN』の編集者でもある、現在進行形の注目アーティスト。第2回では、LGBTQ+視点で発信することに対して中里さんがかける想いをうかがいます。

バックナンバー

LGBTQ+「常識」を疑ってみる 中里虎鉄

”男らしさ・女らしさ”からの解放を

中里虎鉄なかざと こてつ)
1996年、東京生まれ。フォトグラファー、エディター、コンテンツ制作など、肩書きにとらわれず多方面に表現し続けたいノンバイナリーギャル。出版社勤務を経て、独立。Creative Studio REINGから刊行された雑誌『IWAKAN』の編集制作も行う。自身のジェンダーやセクシュアリティにまつわる経験談や考えを発信している。
Instagram

当事者から見た「クィア映画」

第一話で、ご自身のジェンダーアイデンティティやお仕事についてお話しをうかがいました。ライターとしてのご活動についてなんですが、LGBTQ+視点から観た映画のコラム、書かれていましたよね。

常松

読んでくださったんですか、嬉しいです!

中里

僕も「あ~そうなんだ!」ってすごく思ったものがあって。いくつか作品をあげられていましたが、草彅剛さんの『ミッドナイトスワン』に関しては、結構、描写について賛否両論がある作品ですよね。記事の中で中里さんもおっしゃってましたけど、「クィアであること=悲劇」みたいな。

常松
『ミッドナイトスワン』
第44回日本アカデミー賞で最優秀作品賞と最優秀主演男優賞を受賞。トランスジェンダー女性の凪沙(草彅剛)が、育児放棄を受けていた親戚の一果(服部樹咲)を引き取り、共に暮らしていくというストーリー。2020年公開。

トランスジェンダー:こころとからだの性が一致していない人を指す。例えば、生まれた時の性は男性で、自身のことを女性と認識している方はトランスジェンダー女性。その反対をトランスジェンダー男性という。

クィア(Queer):元々は「風変わりな・奇妙な」といった英語圏の言葉。しかし、20世紀終盤以降、その侮蔑を向けられてきたセクシュアルマイノリティが中心となって、あえて自身を指す言葉として使うようになり、マイノリティ全体を繋ぎとめ、連帯へと導く働きを持つ言葉として使われるようになっている。
(参照:https://jobrainbow.jp/magazine/)

昔、ショーン・ペンの『MILK』って映画あったじゃないですか。あれはすごく素敵な映画だった。

常松
『MILK』
同性愛者であることを公表した上で、米国史上初めて公職に就いた政治家ハービー・ミルクの半生を描いた伝記ドラマ。2008年制作。

だけど、『MILK』の悲しい部分だけを誇張していくような作品が今必要なのかというと…。何というか、「あれから何年経ったんだろう?」って、やっぱり思いますよね。

常松

思います。思います。

中里

一方で、映画『怒り』について指摘された視点ってちょっと忘れられがちっていうか。中里さんの記事を拝見して、「そうそう、そういやそうだな」ってすごく思ったんですよね。

常松

そうなんですよね。ゲイコミュニティの中でも性暴力について言うと、結構可視化されていないところが多くて。それこそゲイコミュニティの中での独特の文化だとも思うけど…。ハッテン場とか、性行為を求めて行く場において、もうその場に行っている時点で「性交渉の同意」が前提のものとされていると思われているんですよね。

中里

私自身実際に見たことはないですけど、映画とか見てる限りだとそのイメージはありますね。

笠原

本来は、相手に同意を求めずに性行為をして、相手がそれを望んでいなかったのなら、それは完全に性暴力になるはず。それなのに、LGBTQ+コニュニティーは性被害を伝えたり、性被害に関するサポートをしてもらうための機関にアクセスしづらい。これ自体、すごく問題なんじゃないかと思ってます。

中里

うんうん。

笠原

それにもかかわらず、映画だったりドラマでの表象では、そういった同意のないセックスシーンがたくさん描かれているじゃないですか。そうなったときに、それを見た知識のない人達からしたら、「ゲイ同士だったら別に同意なくても大丈夫」だとか、「ハッテン場だったら同意なくても大丈夫」だとか、そうしたまちがったイメージを与えかねないんじゃないかと思います。

中里

たしかになあ。

笠原

こうしたイメージって、本当にたくさん描かれてきていて、すごく危険だと思っています。性交渉に対する同意が本来はあるべきであって、そうしたことがもっと描かれていかなくちゃいけないと思う。まあ、それは勿論LGBTQ+の映画だけじゃなくて、映画全般に言えるのかもしれないけど。

中里

たとえ全体で見た時に良くできた映画だったとしても、そういうところで簡単にリアリティを失ってしまったりするね。僕たちが子どもだった頃、アメリカの映画観ると出てくる日本人は全員名前が「鈴木」で、眼鏡かけて七三分けなんですよ。

常松

あ~(笑)

中里

「ふざけんなよ!」ってすごく思ったけど、我々だって結局、いろんなカタチで同じようなことを巧妙にやっちゃっている。

常松

うん。

中里

それはひょっとしたら女性に対してもそうかもしれないし、国籍が違う人や障がいがある人、LGBTQ+の人たちに対してかもしれない。いろいろな「違い」を、雑に表現してしまっている。でも、全体のクオリティ高ければ、結果として細かいことは不問になっちゃう…みたいなところが現実にはある。ステレオタイプっていうのは、すごく雑な構造になりやすいんだなっていう印象を、中里さんの記事を読んで受け取ったし、僕らみたいに本つくるものとしては、やっぱり意識して気をつけないといけないなと感じています。

常松

そうですね、ありがとうございます。

中里

ステレオタイプ化される僕たち

テレビでは、報道でも、ドキュメンタリーでも、ましてバラエティ番組であれば、セクシャルマイノリティを取り上げるとき、ジェンダーの部分っていうのをかなり大げさに表現するわけじゃないですか。

常松

そうですね。

中里

一般社会でそれが常識になったらいろいろな人が傷ついちゃう可能性がある。テレビの中のことってすごく極端に何でも表現されているから。

常松

そう。極端だし、結局そのテレビメディアに出てくるLGBTQ+の存在ってほとんどが、「トランス女性」か「ゲイ」の人。それ以外は、ほぼいない。これもすごく問題だと思っています。

中里

言われてみればそうかもしれない。

常松

そうしたパフォーマンスをしたり、ビジネスにすることはひとつの例として全然いいと思ってはいます。あの人たちがテレビで活躍してくれたおかげで、世間のなまざしが変わってきたところもあると思っていますし…。ずっとアンダーグラウンドにいなきゃいけなかったゲイコミュニティが、マスメディアに出て、そこでメインで活躍できるひとつのロールモデルみたいなものを示してくれた。それについては、すごく素敵なことだなと思っているんです。

中里

でも、そこに出てくるセクシャルマイノリティたちのアイデンティティの少なさは、当事者として見ていると感じる。それによって、セクシャルマイノリティの“二極化”みたいな型を提示されているように感じるし、自分をそこにあてはめなきゃいけないかのような葛藤を生みかねない。

中里

あ~。“マジョリティではないもの”として、ある種一括りに提示している部分があるというか…。

笠原

ゲイやトランス女性や、ドラァグパフォーマンスをメディアでされている方々は結構、お笑い要因として参加されていて、ある意味「笑われる対象」として今まで活躍されてきましたよね。

中里

イロモノ扱い…みたいな。

笠原

もちろん、マツコ・デラックスさんはそこから別の次元にいったけど。でもゲイやトランス女性たちが出演している番組を自分の家族が見て、出演者の人たちと同じように笑っているのを見ると、「あっ、自分は笑われる存在なんだ」ってやっぱり思ってしまう。そう環境がある以上、LGBTQ+の当事者たちは自ずと自分のアイデンティティを出さないようにする。これは僕も経験してきたし、多くの人が経験することだと思う。

中里

「カミングアウト」っていうくらいですからね。

笠原

しかも、「レズビアン」や「パンセクシャル」、「ノンバイナリー」といった存在は、確かに存在しているのに、全然マスメディアに出てこない。だから、そうしたアイデンティティを持った人達は、「自分達の存在って無いものなんだ」ってやっぱり感じてしまうし、「ものすごくマイノリティなんだ」ってむちゃくちゃ生きづらく感じてしまう。

中里

透明人間みたいな…。

笠原

それってすごく危険だと思います。孤独だったりとか、恐怖みたいなものを感じさせる要因になっている。だからこそ、なるべく皆が目にする場所には意識して今まで描かれてなかったコトやヒトの存在をしっかり描いていく必要性があると思っています。

中里

本当にそうですね。意識していかなきゃいけませんね。

笠原

ハチ公前で踊る…発信し続けられる強さの理由

先日参加されていたデモの動画も見ました。

笠原

ありがとうございます!

中里
中里さんが参加した、「LGBT新法制定を求めるハチ公前連帯集会」。社会の中で「無いもの」とされているLGBTQ+の人たちの存在についてスピーチを行なった。 

ハチ公前なんて、めちゃくちゃたくさんの人が通るところじゃないですか。そこで話すこと自体勇気がいることだと思います。その上、中里さんはご自身のプライベートなお話をされていて…。本当にすごいな、強いな、と感動しました。

笠原

戦ったり声を上げたりとか、前に出てスピーチするときって、正直めちゃめちゃこわいですよ。ただでさえ普段から差別的な発言をダメージ受けてるのに、「何でまた前に出て自分で声をあげなきゃいけないの?」とか、ハチ公前にいくまでのあいだにも「自分の近しい友達とか、同じクィアのコミュニティの人たちは一緒に戦ってくれるのかな」って不安になりながら向かうんです。で、結果的に、実際に声をあげたらSNSでは「草」みたいなこと言われる…みたいな。

中里

辛いですね。

笠原

ただでさえボロボロなのに、またボロボロになるようなことをしなければいけないって、本当にしんどいって思ってて。でも僕にとって必要だからやってるし、僕はまだ戦えるからやってる。でも、本心は「当事者じゃない人たちがやってよ!」とか、「そこにいるあんたたちがやってよ!」って超思ってるし、でもそれを強要することはできないから…僕が戦うんだけど。

中里

…。

笠原

例えば、移民の問題とかで考えてみるとわかりやすいかもしれない。移民の人たちは声を上げたり選挙に行く権利すら与えられていないわけだから、やっぱり選挙権を持った僕たちがその人たちの代わりに戦わなきゃいけない。その人達にしんどい思いをこれ以上させる必要ないし、だから「戦える人」が戦うべきだっていうのはめちゃめちゃに思ってる。

中里

だから、移民問題について言えば、僕は戦う特権を持っている。僕もある意味では特権性を持っている。だから、どれだけ平等な社会をつくるために僕自身の特権を使うことができるかっていうことは、常に考えないといけないと思ってます。

中里

中里さんの、その強さはどこからくるんでしょうか…。すごいなあと思って。私の身近にもレズビアンとかゲイの子いるんですけど、「親には言えない」って悩んでる子の方が多いんですよね。悩んでいるのを前にしても、私はどうしたらいいのかわからなくて…。

笠原

僕は本当に恵まれていたと思っています。こう自分のセクシュアリティやアイデンティティを理由に、自分のまわりの家族もそうだし、友達たちが僕から去っていくことが、本当にありがたいことに、これまで無かったんですよ。自分がセクシュアリティやジェンダーアイデンティティをカミングアウトしたことで、差別的なことを言われたりとか、加害性を持って差別的なことを言われたりしたことって、あんまり無くって。本当にそれが僕が強くいられる理由だなと思っています。

中里

確かに、中里さんのInstagramとか見ていると、すごくあったかい人間関係を築かれているんだな~と感じます。ポートレートも信頼できるご友人にとってもらっていたり…。

笠原

自分の力だけで、自分のことを愛したり、強くいることって、すごく難しいんじゃないかなと思っていて。もちろん自分のことを自分自身でしっかりケアしてあげることも大事だけど、でもそれと同じように周りからの愛をしっかり感じなきゃいけない。僕たちは、その「感じるほうの努力」をしたほうがいい…というか。

中里

まわりへの感謝を意識する…。何だか、人間全般に言えそう…。

笠原

些細なことでもいいと思うんです。そういうのをしっかりと感じることが、自分を強くしていくことだと思う。家族とか血縁て関係の中でも、やっぱり僕は恵まれていたから理解してもらえたと思ってます。

中里

でも、そうじゃない家族の形もあるということも、もちろんわかっています。LGBTQ+やクィアって、「チョーズンファミリー」と呼ばれる、血縁は関係ない“自分達で選んだ家族”っていうのを形成していることもあります。

中里

チョーズンファミリー(Chosen Family):血縁的なつながりにこだわらない家族形態。趣味や境遇などに基づき、自らの意志で“家族”となる相手を選ぶ。

親の理解が得られずに家を出されてしまったり、家に帰れずにいる当事者もたくさんいる。その当事者が、自分と同じ境遇に置かれている人達を集めて、自分たちのファミリーをつくる。そう言った家族の歴史もあります。その「チョーズンファミリー」っていうものが、これからどんどん確立されていくべきだなとは思っています。

中里

「チョーズンファミリー」という言葉は当てられていなくても、たくさんの映画で家族のあり方が描かれていますよね。『万引き家族』とかもそうだし。

笠原

何かそういう血縁ではない家族形態が、今後は多様性として受け入れられていくべきだと思う。そうすることで自分の居場所を感じられたりするから、血縁の家族だけが”本当の”家族じゃないっていうのは、僕は思っている。

中里

そうだよね。血縁じゃない新しい家族や大切な人がいてもいいよね。

常松

血縁の家族っていうのは、それでもやっぱり一番近くにいて理解してほしい人だろうから、もし自分のアイデンティティを受け止めてもらえなかったとしたらメチャメチャに傷つくとは思う。だけど、家族っていうものを自分自身でつくっていってもいいと思う。さっき、「僕の両親は理解してくれてる」と話したけど、でも僕は自分の選んだ友達とかのほうが家族みたいに思っているし、自分の居場所だと感じられてますから。

中里

次回、第3話では、雑誌『IWAKAN』についてうかがいます。

バックナンバー

LGBTQ+「常識」を疑ってみる 中里虎鉄

世間の当たり前に『IWAKAN』を

CREDIT

クレジット

執筆・編集
長野で野山を駆け回り、果物をもりもり食べ、育つ。お腹が空くと電池切れ。
聞き手
303 BOOKS(株式会社オフィス303)代表取締役。千葉県千葉市の埋めたて地出身。バイク雑誌、パズル雑誌を経て、児童書の編集者になる。本は読むものではなく、つくるものだと思っている。