物語が始まる場所<おばあさんの知恵袋> 三田村慶春さんインタビュー

お店のあゆみ

この記事は約9分で読めます by 笠原桃華

日常から一転して冒険がはじまるような物語には、いつだって不思議な入り口があります。『ハリー・ポッター』なら9 1/4番線、『ナルニア物語』ならクローゼットの奥の方、『はてしない物語』ならあかがね色の本…。そのうちのひとつとして出てきても遜色ないようなお店、それが<おばあさんの知恵袋>です。国分寺駅すぐそばにありながら、なかなか見つけられないブックカフェ。
第2話では店主・三田村さんにこの場所の半世紀にわたる歴史をうかがいます。

三田村慶春(みたむら よしはる)
1949年、大阪生まれ。明治大学文学部仏文学科卒業。小金井市教育委員会勤務の後、小金井市立図書館司書を2011年に退職。現在、<絵本&カフェ おばあさんの知恵袋>のオーナー兼店主であり、さまざまな活動に従事している。NPO法人語り手たちの会副理事長、同全日本語りネットワーク理事。
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故郷の両親を呼び、レストラン<船問屋>開店

第1話で<おばあさんの知恵袋>ができるよりも前からこの場所でお店やっていらしたとおっしゃっていましたが…。

笠原

そうです。ドイツ料理のレストラン<船問屋>というのをやっていました。

三田村

ご家族と?

笠原

はい。私も役所に通りましたし、二つ違いの妹がいるんですが彼女は東京の獣医大学に通っていて獣医になると言ってましたので、もう地元九州に帰ることはないんじゃないかなと思ったんです。当時24歳でしたが今後何十年か経ったら必ず親は介護が必要になるだろうから、両親に「九州の家をたたんでこっちに来ないか」と。

三田村

しっかりした青年ですね…。

笠原

ただ両親は「お前らは仕事あるけど、我々は何やればいいんだ」と言うわけです。そんな中、たまたま私がやっていた本屋の近くにあった洋食屋さんの御亭主が体調を崩されて「もう店辞めるんだ」って言うもんですから、「この場所で洋食屋やってもおもしろいんじゃないかな」と思ったんです。

三田村

たまたまなんですね。お料理も全く未経験ですか?

笠原

仕事でやった経験はありませんでした。ただ学生時代にいわゆる「食事も出るアルバイト」ということで、新宿に昔あった『エッセン』という小さな料理屋でウェイターをしていました。アルバイトなので立派な高級料理は食べさせてもらえないんですが、お客さんが残したソースがあったりすると「ちょっとどんな味かな」ってペロッと舐めたりしてたの(笑) それで家にかえって、あれこれ調合してさっき舐めたソースを再現できるように練習していたから少しだけ作れたんです。

三田村

私もお料理好きなので何となくわかるんですが、再現って結構スキルいると思いますよ。きっとその頃からすでにお上手だったんだろうなと思います。でも、当時そんないろんな種類のスパイス手に入りました?

笠原

ちょうどその頃ね、青山と軽井沢にしかなかったスーパーの紀ノ国屋さんが国立にも店舗を作ったんですよ。そこにいろんな食材が並んでいて、学校やアルバイトの行き帰りにしょっちゅう寄っていました。

三田村

楽しいですよね(笑) 何時間でもいられちゃう。

笠原

うん、好きでした。でもやっぱり当時は飲食店をやるっていうと、あまりいい印象を持たれなかったんですよ。

三田村

え、そうだったんですか?

笠原

つまりお客さんに任せるでしょう。それって安定した仕事ではない。だから最初両親はあまり乗り気ではなかったんですよ。でもそこを「いや! ドイツ料理はある程度安定したお客来るはずだから!」って説得してね。それで開店したら、この辺の学生さんがいっぱい来てくれるようになって、どんどん賑やかになって。

三田村

大学たくさんありますからね。あれ、お仕事しながらご両親と一緒にレストランもやっていたんですか? それともご両親だけで<船問屋>のやりくりをされていたんですか?

笠原

昼間はいないけど、役所から帰ってきた夕方5時過ぎぐらいから私もお店を手伝っていました。深夜1時くらいにその仕事が終わるという日々。

三田村

それを毎日ですか。すごいバイタリティですね。

笠原

若き日の村上春樹がご近所さん!

初めて私が<おばあさんの知恵袋>を訪問した時、三田村さんは村上春樹さんとの交流についてお話ししてくださいました。レストラン<船問屋>時代にお知り合いになられたんですか?

笠原

ちょうど<船問屋>を始めた1974年、同じ年に村上春樹さんが通りの向かい側にジャズ喫茶を開いたんです。厳密に私たちの出会いを言うなら、まだレストランをやる前の1973年の11月、私が<Avant書房>で店番をしてた時です。店の入口のガラス戸をコンコンと叩く人がいる。振り返って扉を開けたら、若い2人のカップルが「この辺でジャズ喫茶を開きたいんですけれど、どこかいい物件ないですかね」って相談してきたの。

三田村

それが今の村上ご夫妻だったんですね。

笠原

そう。その時は「僕らもずっとここで本屋をやってるけれども、学生街で長期休みになると学生さんはみんな帰ってしまうからなかなか厳しいよ」っていう返事をしたのだけれど、翌年の1974年の5月8日に彼らはまたやってきて「お店を開いたのでぜひ来てください」って。それからお付き合いが始まったということですね。

三田村

お店もすごく近いですよね。本当に道をまたいですぐ。

笠原

あれ、三田村さんと村上さんは同世代ぐらいですか?

常松

実は全く同じ年齢なんです。彼は1949年の1月12日、私が1月1日うまれ。11日違いですね。

三田村

デビューする前ってことですよね。

常松

そうです。彼ら自分の店が終わると毎晩のようにうちの店に来て、「みたちゃん何か食べさせてよ」って。私はわたしで店が終わったらちょっとお酒飲んだりしていたから、どんどん仲良くなってね。

三田村

ここにもフクロウ、あそこにもフクロウ

そうそう、<おばあさんの知恵袋>の店内がフクロウだらけなのもその時のエピソードからきているんですよね。

笠原

そう、フクロウは僕のあだ名みたいなものだったから。村上春樹のジャズ喫茶の上にコーヒー屋さんがあって、そこのマスターが「三田村さんはフクロウみたいだね」って言っていたところからきています。

三田村

なんでフクロウだったんでしょう。

笠原

僕もマスターに「どうしてですか?」って聞いたんだけど、「いや昼間は姿が見えないから」って(笑)

三田村

昼間は役所にいますもんね(笑)

笠原

昼間は姿を見せないけど夜になるとこの辺でバタバタしはじめるから、それで「フクロウみたいだね」っていう。それからフクロウを集めだしたんです。

三田村

そこから来てるんですね。

常松

ええ、そうなんです。店内に置いてあるフクロウグッズは常連さんから頂いたものがほとんどです。この前も手作りのブローチをくださった方がいて、うれしかったです。

三田村

壁に絵が飾ってありますけど、これはギャラリーですか?

笠原

いえ、ギャラリーじゃないの。お求めの方には販売させていただいています。私の絵本に絵をつけてくれた林さんっていう方の作品です。

三田村

フクロウの絵があるので、三田村さんのコレクションかなとも思ったんですけども。

笠原
はやしらんさんが三田村さんに依頼されて制作したフクロウの絵。

これは私のためにフクロウの絵を作ってくださいってお願いしたんですよ。切手か何かにしようかなと思うんです。

三田村

フクロウにこだわってる他の店つい行っちゃったりとかしますか?

常松

お店に限らず、やっぱりフクロウ関連のものは気にはなりますね。これまで世界あちこち行ってきましたけれど、例えば北京博物館のそばにフクロウの置物があったり、あるいはギリシャのアテネに行ったときは神殿の柱を全部フクロウたちが支えていたりするわけですよ。「知の神様」っていうことでね。そういうのはやっぱり目が行きます。

三田村

湯島に「ふくろう亭 」って、たくさんフクロウグッズがある小料理屋さんがありますよ。

常松

この国分寺にも「フクロウカフェ」っていうのがあるし、結構ありますね。

三田村

フクロウグッズを置いているカフェじゃなくて、最近だと実際に動物のフクロウに会えるカフェもありますよね。

笠原

ありますね。私ね、そういうお店が流行る前に「フクロウ自分で飼いたいな〜」って常連さん達に言ったんです。そしたら「駄目ですよ、三田村さん」って言われちゃって。

三田村

猛禽類ですもんね。

常松

それもあるし、「自分の世話もできないんですから」って(笑)

三田村

いや、でも! 三田村さんは国分寺のみんなのおじいちゃんみたいなところがありますから、人の面倒はかなり見てらっしゃいますよ!

笠原

そして本屋は開かれた

三田村さんは公務員として図書館にフルタイムで勤務していたけれど、夕方からはお母様と一緒にレストランの運営をされていた。その後お母様のご体調の関係で、レストランは本屋に転向した、と。

笠原

そうです。でも本屋になったというのには、当時の私自身の心境の変化も関係していたかなと思います。37~38才のころだったかな。

三田村

どんな心境の変化でしょうか。

笠原

<自分のことば>について考えるようになったことが理由のひとつです。昔から<誰かが作った論理>や<誰かが作った言葉>を他者に投げかけている自分はいました。でもある時ふと、「<自分のことば>ってどこにあるのだろうか」と考えるようになったんです。

三田村

と言いますと…?

笠原

例えば私は小学生の頃から英語のディベートをしていましたし、大学時代も本から得た知識でもって演説をしていました。そして社会人になってからも、役所でやっぱり似たようなことをしていたんですね。ですが、ふと<自分に対しての言葉>あるいは自分から発せられた<自分のことば>はどこにあるのだろうかと思ったんです。そこに気がついたときに、いろいろ自分自身に問いかけるようになりましたね。

三田村

<自分のことば>っていうのはあまり実感が湧きませんが、自分だからこそできること・話せること、という意味でしょうか。

笠原

そうですね。例えば小学校に勤めていた時、今ほど酷くはなくともやっぱり「いじめ」ってのがありました。学校には来るけれど教室には入れないで一日中保健室で養護の先生と話をしていて、15時半のチャイムが鳴ると保健室から家に帰るという子どもがいる。そんな姿をみていてね…。

三田村

私の小中学校時代にもいましたね。

笠原

子どもがいじめたり・いじめられたりしている、それは現象的に見れば子どものいさかいです。けれど、その根本にはやっぱり大人の姿勢があるなと感じていたんです。

三田村

大人の姿勢…。

笠原

そうです。大人が子どもに対して何らかのストレスや負荷を与えていて、子どもがそれを受け止めている。そして子どもはその自分のストレスを発散する先が必要で、そうするとやっぱり今度は自分より弱い者、あるいは自分とは違う存在に矛先を向けてしまう。それに気がついてから、「これからはやっぱり子どものためにっていうんじゃなくて、<子どもに見せる大人の姿勢>としてどういう存在である必要があるかな」と考えました。それで、児童書の本屋を始めたという経緯があります。

三田村

元々同世代の人たちや大人に向かって発信していた三田村さんですが、小学校での子どもたちの関係を通して「大人の姿勢はどうあるべきか」と考え始めたそうです。第3話では絵本を通して三田村さんが大人たちに発信していることについてうかがいます。

大人たちと絵本

CREDIT

クレジット

執筆・編集
長野で野山を駆け回り、果物をもりもり食べ、育つ。好奇心旺盛で、何でも「とりあえず…」と始めてしまうため、広く浅いタイプの多趣味。普段はフリーで翻訳などをしている。敬愛するのは松本隆、田辺聖子、ロアルド・ダール。お腹が空くと電池切れ。
聞き手
303 BOOKS(株式会社オフィス303)代表取締役。千葉県千葉市の埋めたて地出身。バイク雑誌、パズル雑誌を経て、児童書の編集者になる。本は読むものではなく、つくるものだと思っている。
撮影
某研究学園都市生まれ。音楽と東京ヤクルトスワローズが好き。最近は「ヴィブラフォンの入ったレアグルーヴ」というジャンルを集めて聴いている。