
映像作家・フォトグラファーWataru Umedaさんのインタビュー第3回。今回は、Umedaさんに大きな影響を与えたハワイ時代からお話をうかがいます。今も農業に強い興味をもっているのはこの経験からなんです。

Still Got the Groove / Wataru Umeda
YOUTH

映像作家・フォトグラファー。千葉県生まれ。高校生時代にパンクの洗礼を受ける。日大芸術学部写真学科卒業後、ライブの模様やミュージシャンのアーティスト写真を撮影するフォトグラファーに。その後、WRENCHのマネージャーを勤め、再びフリーランスのフォトグラファーに。2018年『SOUNDS LIKE SHIT: the story of Hi-STANDARD』映画監督デビュー。
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※梅田航さんのインタビュー連載の写真は、2019年に行われた『SHIBUYA全感覚祭-Human Rebelion-』と、KEMURI「SKA BRAVO TOUR 2019」で撮影されたものに加え、©Wataru Umedaとある梅田さんの作品を掲載。
人生観を変えたハワイ時代

今回はハワイに住んでた時代について聞きたいんだ。あれっていつ頃なの?

あれは、ちょうどマネージャー辞めてすぐぐらいじゃないですかね。知り合いのツテで、ある農家の家で2ヶ月くらい滞在しましたね。

農家で何をしてたの?

農作業を手伝ってました。大規模な農園のほかに家庭菜園みたいなのもあって、農薬とか使わないから雑草がボーボーなんで草むしりとかしてました。その農家っていうのがバリバリのヴィーガンで。自給自足で暮らしてるんです。


えっ! 肉禁止!?

ジャングルの中に住んでいるんですけど、肉禁止なんです。でも、もう我慢できない!と思ったら、俺は街にいって、こっそり肉食べてました。

肉無いと厳しいよね(笑)

でも、そのライフスタイルにめちゃくちゃ感銘をうけて。俺もいつか自給自足で暮らしたいって思うようになりましたね。

最初に梅ちゃんを構成してる要素に「農業」が入ってるっていってたのはそれなんだ。でも、2ヶ月で帰ってきたんだ。



もっと長くいたかったんですけど、今は音楽の写真撮らないとなと思って。で、帰国して個展を開いたって感じですね。

なるほど。個展やってから何か大きな転機ってあった?

個展の時に、昔の仲間にすごく久しぶりに声かけて、DJをやってもらったんですね。で当時そいつが「PUNK ROCK CONFIDENTIAL」ってFat Mikeがアメリカでやってた雑誌の日本版の編集やってたんで、その手伝いをするようになったり、ソロアーティストとしての難波章浩さんの写真を撮ったりするようになりましたね。充実していました。

その後、日本を離れて、アメリカに住んでたよね。当時、Facebookでメッセージ送ったら、今アメリカ住んでますって聞いてビックリしたよ。実際なんで向こう行ったの?

当時、仕事がルーティーン化しちゃったこともあって環境を変えたかったんですね。あと、英語も勉強したいっていうのもあって学生ビザで2011年の頭からサンフランシスコとかLAで2年くらい暮らしました。


学生ビザってことは働けないよね。アメリカにいたときは仕事はどうしてたの?

じつは、俺の身近な人で報道関係者用ビザを出してくれる人がいたんですけど、当時それに気づかなくて学生ビザで行っちゃったんですよね。報道関係者のビザなら仕事もいろいろできて、あとに結びついてただろうなと思いますけど、やり方が間違ってましたね。

そのビザ取り直してまた行こうとは思わなかったの?

なかったですね。もう金も無かったし、写真を撮るモチベーションも無くなってました。違うことがやりたいって思ってて、ハワイで体験した暮らしを思い出したんですよ。それで、農業をやりたくなって草津に移住して農家をやってました。

LAから草津に!?

えー! その時代のこと知らなかった。LAから草津行く人いないよ!?

大学の頃の友人で草津に移住して畑を始めたやつがいたんで、その友人にお願いして手伝わせてもらってました。結局4年ぐらい農業やってました。でも、農業だけで食えないんで、冬の間は東京に戻ってきてバンドの写真を撮ってました。やっぱり俺が金を稼ごうと思ったら写真しかなかったんですよね。

なるほど。そのときはまだムービーは撮ってなかったの?

2009年にディジュリドゥ奏者のGOMA※さんのジャケット撮影をする機会があって、その時にムービーも撮ったんですけど、それがわりと気に入ってもらえて。それがたぶん最初のムービーの仕事ですかね。
※オーストラリアの先住民の楽器、ディジュリドゥの奏者として知られているGOMA が2009年に発売したアルバム『Afro Sand』。この作品のジャケット写真と、PVの撮影に梅田さんは参加した。

ムービー用の機材持ってたんだ。

いやいや、一眼カメラです。今でも一眼で撮ってるんですけど、もうその頃には動画撮影機能がついてたんで。

なるほど。その最初の仕事からムービーの仕事が来るようになったって感じ?

まあ、そうですね。とにかくそれ以降撮る機会はありました。ある日「難波さんが自分のバンドのツアーのドキュメンタリーつくりたいらしいんだけど、梅ちゃんムービー撮れない?」って話があって、2週間くらいツアーに同行して撮影しました。それがハイスタ関連のムービーの仕事としては最初の仕事でしたね。そのあとに、ハイスタが突然ライブを3本やることになったんですけど、梅ちゃん来てって呼ばれたんですよ。写真撮るんだろうなと思って行ったら…。

ムービーだった?

そう(笑)。その3本のライブを通してスペースシャワーでハイスタの特番をつくることになったので、ライブのほかにバックヤードとか楽屋とかも撮影しました。撮影だけかと思ったら編集もやることになって、まわりの人に手伝ってもらいながらつくりました。その作品がわりと評判よくて、それで難波さん以外のメンバーにも、「梅ちゃんムービー撮れるんだ」って認識してもらえました。
梅田さんが監督した、スペースシャワーTVのドキュメンタリー番組『Live on our way』貴重なライブ映像と、活動再開の裏側を描いた。

じゃあ、ハイスタのこれまでの歴史を映画にするって話が出たときは、メンバーみんな「梅ちゃん撮ってよ」って感じだったの?

そうですね。気がついたら、そういう流れになってました。

梅ちゃんは人生のいくつかのポイントでハイスタと関わってきたけど、ずっとハイスタに密着してたわけじゃないし、ハイスタファンのすごい映像作家って他にたくさんいたと思うんだけど、メンバーは梅ちゃんに頼んだんだよね? それは本人的にどうとらえてるの?

いや、俺自身もそう思ってましたよ。なんで俺なんだろうって(笑)。でも、たぶん、ハイスタは昔から自分らでレーベル立ち上げたりイベント主催したりとかDIYの精神が強いから、自分たちのまわりにできそうなやつがいたらそいつと一緒にやるっていう発想で俺にやらせてくれたのかもしれないっすね。

あーなるほど、DIY精神ね。それあるかもね。

これまでのハイスタを撮ってたフォトグラファーの人達ももちろんたくさんいるんですけど、あの映画に関しては違う人とやって新しい感じを出したいっていう方向性だったらしくて、そんなときにたまたま俺が近くいたからっていうのもあると思います。

梅ちゃんならできるっていう直感があったんだろうね。

さっき言ったスペースシャワーの特番の映像って、今見るとめちゃくちゃ粗いんですよ。でも勢いがあって情熱が伝わってくるんですよね。そこになにか熱いものがある感じ。ハイスタのメンバーはそういう部分を求めてたから俺に声かけてくれた…ならいいですね(笑)。

そのはずだよ! じゃあ、次の最終回では映像作家として知られるきっかけになったハイスタのドキュメンタリー映画『SOUNDS LIKE SHIT: the story of Hi–STANDARD』とか将来の展望について聞かせてください!


Still Got the Groove / Wataru Umeda
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