前回は、アイドルグループとしてデビューしたその後の活動から、またしてもアウトローの道に戻りうつ病になった話。そして、映画祭に出たのがきっかけで、俳優としての仕事を確立し、順調な道筋をたどっていたところまで話してもらいました。今回は、ついに10万人に1人の難病「脳動静脈奇形」になった時の話を聞いていきたいと思います。
※初となるラブソング「WHITE」配信中!
10万人に1人の難病と闘う俳優・間瀬翔太
人を傷つける側から、ファンを守る立場に
風邪だと思っていた病が、まさかの10万人に1人の難病と発覚
前回は、仕事が順調だった時に、脳に爆弾を持ってたことが発覚したところまで話してもらったけど、最初はどういうシチュエーションだったの?
その日、新曲のレコーディングで相方とブースに入ってたんだけど、歌ってる最中に突然頭が壁にぶつかった気がして。歌い終わってから相方に相談しようと思ったんだけど、名前が思い出せないの。中1から親友なのに。
普段生活してる上で、そんなこと起こらないもんね、普通。
だからマネージャーに電話して病院に連れていってもらおうと思ったんだけど、今度は自分のいる場所がわからなくて。「ここ何駅だっけ?」みたいな。名前わかんない、場所わかんない、でも歌詞は出て来るっていう不思議な状況。結局、マネージャーが無事来てくれて、曲が終わってから病院に行くことになったの。
さすがマネージャー。場所も悟ってくれたのね。原因はなんだったの?
実は、その前から頭痛があったから地元の病院には行ってたんだけど、風邪ですって言われてたんだよね。それでその日もいざ病院に行って診てもらったら、やっぱり風邪ですって言われて。でもさすがに違うと思って「CT撮ってください」って言って撮ってもらったの。
それ、その時に撮らなかったら取り返しのつかないことになってたんじゃない?
撮らなかったら、8時間後に死んでたらしい。
そういえば、仕事仲間のお母さんも脳梗塞で亡くなってるんだよね。
そうそう! 映像ディレクターの永田くんに、その日の一週間前にお母さんの話を聞いてて。亡くなる前に頭がガンガンするって言って、夜に倒れてそのまま・・・っていう話だったから、もしそのタイミングでその話を聞いてなかったら、CT撮って欲しいとは言ってなかったと思う。
永田くんのお母さんが助けてくれたのかもしれないね。
自分が救われなかった分、仲間を助けてくれたのかもしれないって思って。僕はもともとそういう性格じゃないから、普段だったら自分からCTなんて行かないし。
それでCT撮り終わったら、数名の先生が来て「入院してください」って。
その時はまだ病名はわからなかったんだよね?脳出血だけだから、その原因が何かによって病名が変わるんだもんね。
クモ膜下出血ではないみたいなんだけど、脳出血はほぼ100%だったらしくて。だからその日はレントゲンを撮って、そのまま入院。その時は洋服もなかったし、何より「仕事どうしよう」って一番思った。
急に入院することになったら、いろいろ頭が追いつかないよね。
しかもその5日後くらいに大きめのオーディションがあったから「絶対に5日後には退院させてください」って言ったら、先生が「検査入院なのでとりあえずは明日様子を見ますけど、もしかしたら退院できるかもしれないから、信じてください」って言われて信じてたの。
そんな重い病気じゃないかもしれないしね。
でもそしたら、3日後くらいに足の動脈を切られて、脳みそまで気絶しそうなくらい熱い薬を流されて。僕はそれが手術だと思ったわけよ。痛すぎて。これさえ我慢すれば助かるって。でもそれは手術じゃなくて、病名を調べるための検査だったんだよね。
そしたら3日後に「本当にすみません、10万人に1人の難病です」って言われて。5日後の退院どころか、全然退院できないみたいな。
ちなみに、お医者さんは最初どうして風邪だって診断したんだろう・・・
気づかなかった原因としては、僕が左利きだったことにあるらしくて。脳動静脈奇形になったのは左脳だったんだけど、左利きの人は左脳をあまり使わないから、障害もそんなに出ないし、破裂しかけてても気づかなくて、先生たちも脳の病気じゃないと思ったらしい。
なるほどね。でも逆にあまり使わない左脳の方だったから、手術後の後遺症が重くないのは不幸中の幸いかもしれないね。
それは本当にそうだと思う。手術の方法も変わってきたと思うし。
お母さんの日記をきっかけに、遺書として始めたブログ
初めて10万人に1人の難病になったっていう事実が知らされた時は、どう思った?
「オーディションどうしよう」「僕何か悪いことした?」「死ぬのかな?」とか。ここ数年命かけて仕事も頑張ってきて、人も助けて来たのに、なんだこれっていう感情が一気に来て、久々に鬱になっちゃったんだよね。それで、もし仮に生き残っても“芸能人じゃなくて、アウトローに戻る。人を助けることは二度としない”って心に決めてた。
自分が芸能人として頑張ってきた人生に、恩を仇で返されたような気分になっちゃったわけね。
そう。十何年もやってきて、幸せにもなれないし、いざ大きめの仕事が決まりそうな時に、この始末。もう終わりじゃんって思ったから、仲良い友達とも全部縁を切って、アウトローに戻ろうって本気で思ってた。その時はお母さんにもマネージャーにも「人を泣かせるし、苦しめて生きていく」って言ったんだよね。
でも、アウトローに戻らずに済んだきっかけが何かあったわけだ。
前々回、お母さんが実は乳がんだったっていう話をしたと思うんだけど、乳がんの時にお母さんが書いてた日記を持って来てくれて、それを入院中に読んでたんだよね。そしたらその中には”施設にいる翔太に会いに行った後に、すぐ戻って病院に行かなくちゃ”っていうリアルなことが書いてあって、あの頃散々苦労かけてたのを思い出したの。
施設の机の上に大量にお菓子を持って来てくれたり、お母さんの愛情をすごい感じたよね。
その時に、また不良に戻ろうとしてる自分の馬鹿さを改めて感じて「もう死のう」って決めたの。でも、芸能人として死にたかったから、自分の病気のことを遺書としてブログに書くようになったんだよね。
芸能人の活動として、何かを発信したいっていうのがあったんだろうね。
そうそう。間瀬翔太が死んだ後に、こういう仲間がいたって残せるし、一つも無駄になることはないと思って7月26日にブログを書いたら、次の日に携帯が鳴り止まなかったんだよね。それまで140人くらいしかいなかった登録者数が1000人を超えて、退院の頃には2000人を超える数字になって、もう大泣きした。ピンチがチャンスに変わってるんだって。そこから、今につながるかな。
1回はアウトローに戻ろうって思ったけど、お母さんの日記もあったし、ファンたちのこともあるから、もう一度ちゃんとやってみようって思ったんだね。
思い返すと、何回もこういう浮き沈みを繰り返して来た人生だなって、今は思うよ。
病気になって、何が変わった?
怖いものがなくなったかな。
一回どん底を味わってるもんね。自分がなるなんて思わないし、ましてやなってからも多分思えないよね。
思ってなかった。でも、手術の数日前に「あ、僕10万人に1人の病気なんだ」って思ったかな。
そこで初めて現実味を帯びたわけね。
検査も異常だったからね。かなりきつかったよ。
普通の人だったら歯医者でも怖いもん。
それが、実は歯も関係あるんだよね。ていうのも、手術で歯が折れるらしくて。呼吸ができなくなるから口に硬い管を通すんだけど、それが歯に当たって手術中に痙攣とかで折れちゃう人もいるの。それで裁判になるから、その契約書も書くんだよね。
え、手術で歯が折れるなんて全然想像つかなかった!
ちなみに、その契約書ってどんなことが書いてあるの?
歯が折れても文句言わないとか、目も見えなくなるかもしれないとか。だからこの病気って、命が助かる確率はそもそも低いんだけど、さらに20%は後遺症が残るって言われてるの。
でも、そんな自分の体の重要なことが一つ一つ書かれた紙に、簡単にチェックしていけないよね。
できなくて、その時初めてパニック障害になった。でも一つ一つ見てたら「まあいっか」って思って、死ぬ覚悟で全部まとめてチェックしたよ。だから手術の時にはすでに、助かった用と遺書の2種類のブログを用意してた。遺書の方は速攻消したけどね。
手術が無事に終わった時は、本当に安心したよ!
でもその時は、友達に会いたくないのが強かったんだよね。弱ってる自分を見せたくなくて、回復して元気になってから会いたいって思ってたから。酒もやめてるし、体重の激減も恐怖を覚えてたしね。
痩せてイケメンに磨きがかかったけどね!笑
ありがとな!笑
次回は、こんな感じでみんなを笑顔にしてくれる芸能人としての間瀬くんと、1人の人間としての間瀬くんの両面に迫りながら、今後の活動についてなども聞いていきたいと思います。