『日本映画監督協会』最年少の映像ディレクター・永田佳大

ゴジラになりたかった少年が“監督”を目指すまで

この記事は約7分で読めます by 遠山彩里

映画やドラマ、ウェブCMにミュージックビデオまで多岐に渡る作品を手掛け『日本映画監督協会』にも所属する、映像ディレクターの永田佳大さん。一言で映像ディレクターと言っても、実際にどのようなことをしているのか興味がありますよね!?ということで、今回は永田さんに、学生時代から社会人になるまで、そして今後の展望などを聞いてきました。フリーランスとしての活動経験もあったとのことなので、これからフリーで同じ職業を目指している人にも参考になるかもしれません!

永田佳大さん
永田佳大(ながたよしひろ)
1991年生まれ、岐阜県出身の28歳。2015年3月 大阪芸術大学映像学科卒業。 2015年4月映像制作会社に入社 クリエイティブチームでADからディレクション業務。 2016年3月 フリーランス転身。 2017年4月 合同会社HARI設立。 2017年10月 日本映画監督協会入会。
ショートフィルム、企業VP、Vシネマ、ウェブドラマ、MVなどのディレクションを経験。
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最初は、“ゴジラ”になりたかった

今日は、映像ディレクターとして活躍する永田くんに、学生時代から現在の会社を立ち上げるところ、そして今後の展望までを聞いていこうと思います。

遠山

去年のベスト映画は『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』でしたね。

永田

いきなり!(笑)
永田くんゴジラが好きなの?

遠山

映像ディレクターを目指したきっかけになったのが、ゴジラなんだよね。

永田

なるほど! でも、今でこそ新しい映画とかあるけど、永田くんが小さい頃のゴジラって結構渋いんじゃない?

遠山

幼稚園の頃に、『ゴジラVSメカゴジラ』っていう映画を見たんだけど、そのゴジラがめちゃめちゃかっこよかったんだよね。それで、その時はゴジラになりたいと思ったんだけど、段々なれないっていうのがわかっていって(笑)

永田

わかるわかる、女の子がプリキュアになりたいってうのと同じでね!

遠山

だから怪獣の着ぐるみに入りたいとかも思ったんだけど、やっぱりゴジラとかを作ってる方に行きたいなと思って。

永田
ゴジラのフィギュア

その頃、すでに監督っていう職業は知ってたの?

遠山

知らなかったね。小学校高学年になってやっと、親か先生に「それだったら映画監督じゃない?」って言われて。

永田

じゃあ、子供の頃からの夢がずっとブレずにいたんだね!

遠山

そうだね。それで監督っていう言葉を知ったから、その頃からはなんとなく映画監督になりたいっていうのは言ってた。そしたら周りから「〇〇見たら?」とか勧められるようになって、監督っていう道をもっとしっかり考えるようになったのかも。

永田

なるほどね、周りの一押しもあったんだ。

遠山

監督、脚本、編集、演出、俳優まで経験した高校時代

高校に入学してからは放送部に入ったんだよね。

永田

放送部って、マイクで話したり、音楽かけたりしてるイメージなんだけど、そこではどんなことしたての?

遠山

その放送部には、ビデオカメラとか、編集ソフトの入ってるパソコンとかがあったから、ビデオ振り回して色々撮ってたりしてたね、仲間内で。

永田

じゃあ高校生の時から、すでにそういう機材に触れてたんだ。パソコンではどんなことをやってたの?

遠山
上を見る永田さん

動画の編集してたね。

永田

高校生の頃から編集作業までこなしてたんだ! さすが「編集の鬼」っていう異名がつくだけあるね。

遠山

今から考えると、独学の拙い技術だったけどね。

永田

じゃあもうその時には本気で映像の世界を目指してたんだね。

遠山

その時は、職業に結びつけるよりも、本当に楽しい! って感じでやってたかな。

永田

青春だねえ。ちなみに、どういう作品を撮ってたの?

遠山

『007』とか『ライアーゲーム』のパロディみたいなのを撮ってたよ。その時の失敗談というか思い出話なんだけど、立体駐車場でエアガンを使って撮影してたら、誰かに通報されたみたいで、警官10人くらいに囲まれたっていう(笑)

永田

確かに、私でも撮影だってわからなかったら通報するかも(笑)

遠山

そんな失敗談もあったけど、実はその作品をコンクールに出したら、全国の決勝まで行ったんだよね!

永田

通報されるくらいリアリティーのある撮影だったっていうのが伝わったんだろうね! それは、監督としてやってたの?

遠山

そうそう。それで、その作品が全国に行ったっていうので、文化祭の演劇の脚本を頼まれたりもした。

永田

脚本もやるんだ!

遠山

その演劇では、脚本、監督、演出もやったよ。しかも、当初の主演が別件で出れなくなって、まさかの主演もやったっていう、超ワンオペ(笑)

永田
カメラを見つめる永田さん

その演劇で、一気に経験が増えた感じがするね。で、高校生の本業である勉強はしてたの?(笑)

遠山

勉強もしてたけど、文化祭とかが楽しかったからそっちに完全に夢中になってやってて、赤点ばっかりの劣等生だった・・・。

永田

そりゃそうなるわ!

遠山

スガシカオになりたくて、浪人生に

それで、そんなことばっかりしてたら成績も上がらず、地元の大学には受かったんだけどそこで一から映画部立ち上げるのもなんか違うと思って、浪人したんだよね。
あと、スガシカオがすごい好きだったんだけど、スガシカオが浪人生だった時の気持ちを『夜空ノムコウ』とか『19才』に書いてるっていう話を聞いて、俺もスガシカオみたいになろうかなって。

永田

私も19才よく聞いてたけど、浪人の時の気持ちを書いたっていうのは初耳! 永田くんの浪人時代はどうだったの?

遠山

かなり辛かったけどね、浪人時代。予備校に行くお金もないから、朝新聞配達のバイトをやって、昼は独自の知識を身につけたくて本を読みまくったり小説を書いてみたり。
そんなこんなで勉強はせずにまた受験期が来るんだけど、いくつか大学を見に行ったり受けたりして、結果大阪芸術大学の映像学科に決めたんだよね。

永田

その前の年に地元の大学に受かってたと思うんだけど、そこから芸大にシフトしたのは、やっぱりやりたい映像系を目指そうってなったから?

遠山

そう。でもずっと迷ってたけどね。周りからは、学費高いし、どうなるかわかんないし、それこそ卒業後の給料めちゃめちゃ低いよとか色々言われたから、自分でもわかんない道行こうとしてんなーとは思ったんだけど、やっぱり楽しいが勝ったよね、その時は。

永田
こちらを見つめる永田さん

私も芸大だったからわかるわ。それで、晴れて大阪芸大に入学して、芸大では何を勉強したの?

遠山

それが、最初入学式終わった後に学科長に言われたんだよね。「君たちはここに四年間いても、何にもなりません」って。

永田

おお、すごいこと言うね(笑)

遠山

実際の授業では、フィルムカメラの使い方を教わったりしてた。でも、授業以外では機材を貸してくれなかったから、意味ないやん!と思って。そんな中一眼レフを持ってる友達がいたから、もう自主制作をバンバンやるしかないと思って、とにかく作品撮ってた。

永田

ちなみに、自主制で撮ったものの中で、一番気に入ってる作品って何かある?

遠山

『アイ・マナ・アイ −I AM AN EYE−』っていう作品かな。画家志望で色盲の青年を主人公にしたモノクロ作品なんだけど、その当時にしかない感性で作った感じが気に入ってるかな。
後は『小村は何故、真顔で涙を流したのか?』っていう作品が、「第17回京都国際学生映画祭」のグランプリに選ばれたのも芸大の思い出。

永田
※『アイ・マナ・アイ −I AM AN EYE−』
※『小村は何故、真顔で涙を流したのか?』

すごい、グランプリに選ばれたりもしてたんだ!芸大時代は、とにかく作品を撮ってたんだね。就活もしてたの?

遠山

作品撮りばっかりやってたら、あっという間に就職期になってて。就職先は、東京の会社にしようと思ってた。東京を選んだのはやっぱり仕事が多そうだったし、せっかくなら若いうちにしばかれに行った方がいいと思ったんだよね。

永田

追い込むね! 就職先は、やっぱり映像制作会社に行こうって決めてたの?

遠山

そうそう。就活サイトに、自由にディレクションできそうな会社が載ってたから、自分にはそういうところが合ってると思って、そこに決めた。

永田

自分で見つけて応募したのね。

遠山

そう。そしたら、人が足りないから1月からインターンで来て欲しいってことになって、単位もあらかた取り終わってたから卒業前に東京に引っ越したんだよね。

永田

卒業を待たずして東京出たんだ!
次回は、キャリーケース一つで東京に出てからの放浪記から始まり、映像制作会社での仕事内容についてを聞いていこうと思います!

遠山

キャリーケース一つで上京し、フリーとして自立するまで

CREDIT

クレジット

執筆
フリーのライター兼プランナー。フードスタイリストやウイスキー検定の資格を持つ。趣味は料理やお酒。一人でどんなお店にでも入れるため、取材も積極的に行う28歳。人との繋がりとコミュニケーションを大切に、遊びも仕事も全力で取り組みます!
撮影
千葉県千葉市美浜区出身。ゴースト・オブ・ツシマにはまってます。パンダが好き。
撮影
某研究学園都市生まれ。音楽と東京ヤクルトスワローズが好き。最近は「ヴィブラフォンの入ったレアグルーヴ」というジャンルを集めて聴いている。