今回からは映像作家・フォトグラファーの梅田航さんのインタビューを始めます。梅田さんは、ライブの熱狂を描き出すフォトグラファーでありながら、Hi-STANDARDの『SOUNDS LIKE SHIT: the story of Hi-STANDARD』などの作品で知られる映像作家でもあります。そんな梅田さんと、インタビュアーの心平とは、なんと同じ高校の1年違いで先輩後輩。実は30年来の付き合いなんです。
※梅田航さんのインタビュー連載の写真は、2019年に行われた『SHIBUYA全感覚祭-Human Rebelion-』と、KEMURI「SKA BRAVO TOUR 2019」で撮影されたものに加え、©Wataru Umedaとある梅田さんの作品を掲載。
ビートルズで音楽好きに
梅ちゃん、久しぶり〜。
お久しぶりです!
今日はうちのサイトのために、梅ちゃんの表現者としてのすべてを語ってもらおうと思ってさ(笑)梅ちゃんと言えば、なんと言っても音楽なんだけど、いつ頃から音楽が好きになったの?
たぶんきっかけは10歳ぐらいのときですね。親父が買ったビートルズのベスト盤を車の中でよく聴いていて。歌詞なんかわからないのに一緒に歌ってたら、いつの間にか好きになってました。それ以降、洋楽が好きになって洋楽ばっかり聞くようになったんです。
あれ? 邦楽は聴かなかったの?
実は、邦楽はまともに聞かなかったんですね。子供のときはみんなが聴いてるものが好きになれなくて。あまのじゃくだったんですよ。
とんがってるな〜。じゃあ中学高校ではどういうの聴いてたの?
中学はプリンスとか、R.E.M.とかですかね。高校は所謂初期パンクとかニルヴァーナ※とか聴いていましたね。
※ニルヴァーナ=アメリカのロック・グループ。1991年にアルバム『ネヴァーマインド』、シングル『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』を大ヒットさせ、それまでのハードロック、ヘヴィメタルを過去のものとした。そのファッション、音楽は「グランジ」と呼ばれた。1994年にヴォーカル、カート・コバーンが自殺し、バンドは解散してしまう。
高校では、バリバリバンドやってたもんね。
コピーバンドでしたけどね。
高校のときに初期パンク聴いてたって言ったけど、それ90年代だから。リアルタイムじゃないよね。
そうですね。それまではビートルズとか昔の音楽を聴くことが多かったんですけど、リアルタイムではまったのはグランジですね。
ニルヴァーナとか、パール・ジャムとかね。
グランジって結局パンクの一部で、マーケティングの都合上誰かがグランジって名付けたのかなって思ってます。ニルヴァーナなんかたぶん最初はパンクやってたつもりだと思うんですよね。
最初にニルヴァーナを聴いたときに、パンクバンドだって思ったもん。ニルヴァーナ以外に何か聴いてた?
メタルも好きでしたね、メタリカとかメガデスとか。当時はちょっと暗いものに惹かれてましたね。
あの頃はそのふたつは十代男子の必修科目だったよね。で、いつHi-STANDARD※(以下ハイスタ)を知ったの?
たぶん大学にいた時分ですかね。ほんと衝撃的でした。日本にもこんなカッコイイバンドあるんだって。それ以降、当時勢いのあった日本のバンドも聞くようになりました。
※Hi-STANDARD=1991年に結成、1994年アルバム『LAST OF SUNNY DAY』でデビュー。海外でのリリースとツアー、AIRJAMの成功、自主レーベルPIZZA OF DEATH RECORDSの運営、そして「MAKING THE ROAD」の驚異的なセールスと、数々の伝説を残しながらも、2000年に活動停止。その後「AIR JAM 2011」で活動再開。
映画コンテストに優勝するも写真の道へ
高校ではバンド以外にも、写真部に入ってたよね?
そうですね、高2の頭くらいかな。当時、突然思い立って写真部と山岳部に入りましたね。
山岳部も入ってたね。そういえば階段を上り下りしてたよね。
山岳部に入ったのは、ただキャンプがしたかったんですよ。「学校休んでキャンプ行けるなんて最高じゃん」って思ってて。実際はすごい辛かったんすけどね。
僕の中であんまりキャンプするキャラじゃなかったから不思議だったよ。で写真部は?
写真部に入ったのは、ちょうどその頃に祖父が亡くなって、形見として一眼レフのカメラをもらったのがきっかけですね。
そういうきっかけだったんだ。映画で出会ったのもこの時期?
そうですね。ツネさん(心平)たちが撮った映画を2年生の文化祭のときに見て、衝撃を受けたんです。「いつもバカなことしてたツネさんたちが映画をつくったんだ!」って。当時、俺はバンドもコピーばかりしてたから、自分でゼロから何かを創りだすっていうことに憧れてたんですよ。だから、ツネさんらが自分たちで何から何まで自分たちでやったのを見て「俺もやりたい!」って触発されたんですよ。
じゃあ僕らの名作「ALWAYS ON THE RUN」(笑)が、梅ちゃんに初期衝動を与えたんだ(笑)。
そうですよ。あの文化祭のあとすぐ映画つくりはじめましたね。
梅ちゃんは脚本とか監督とかやってたの?
いや、おれは撮影ですね。米良厚が監督です。出演もしましたけど。どっちかっていうと撮るのが好きだったんで。
なるほど。で、映画は文化祭でどんな反応だったの?
『シュプレヒコール』って作品だったんですが、反応はけっこう良かったんですよ。友達が見に来てくれるかなぁ〜程度に思ってたんですけど知らない人とかもけっこう来てて。で、泣いてる人とかもけっこういて、「自分がつくったもので人の心を揺さぶることができるんだ」ってびっくりしましたね。同時に、「これが俺のやりたいことだ」って感じましたね。
あの作品はすごかった。モノクロでね。SFなんだよね。ぼくたちのとは段違いでクオリティが高かった。全国コンテストで優勝したよね?
そうですね、日テレの全国コンテストで優勝して、賞金100万もらって、地上波でオンエアされて。それで完全に人生が狂いました(笑)。
まあそりゃ狂うよね(笑) でも大学は写真学科だったよね? なんで映画学科じゃなかったの?
もちろん映画つくりたかったんで、日芸の映画学科受けたんですよ。結局本命だった映画学科は落ちて、第二希望の写真学科に受かりました。高校生映画の全国チャンピオンだったんですけどね(笑)
人生ってうまくいかないよね(笑) じゃあ、大学入ってからは映画撮ってなかったの?
撮ってましたけど、高校時代に持ってた情熱はなかったですね。高校の仲間と集まっても、なんか以前のような熱量が生まれなくて、うまくいかなかったです。
じゃあ、大学時代はどっちかっていうと写真撮ってたんだ。
そうですね。でも、写真のほうも「こういう写真を撮りたいんだ」っていう自分のテーマもありませんでした。今考えるとすげえもったいねえなって思いますけど、ただひたすら授業の課題をこなしてった感じでしたね。
そうか。その頃って好きなフォトグラファーっていたの?
今も好きですけど、森山大道さんですね。あとは、その当時『rockin’on』とか『DOLL MAGAZINE』とか音楽雑誌もよく読んでたんですけど、そこに載ってる畔柳ユキさんとか菊池茂夫さんとかの写真を「かっけえなー」って思いながら見てました。
そのときは、自分でもそういう写真を撮ってみたいとか思わなかった?
思わなかったんですよね…。なんで気づかなかったのかな(笑)。
でも後々ガッツリ撮るようになったんだから、まあいいじゃん(笑)。次回はその辺の話を聞かせてもらうね!