「脳梗塞になっちゃった!」第7話。最終回です。最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。さて、ついに退院を迎える和子さん。入院中に経験したことは、ありがたく、忘れがたいことばかりでした。
脳梗塞になっちゃった!
突然、蛇口をひねったように…。
病院の夜は、眠るということがない。
当直の看護師さんたちが必ず起きているし、入院患者は夜、熟睡することが少ないものだ。和子さんも、ずっと点滴を続けていたので、毎晩、何度もトイレに起きた。
一度など、ベッドから何とか起きて(力が入りにくいので起きるだけで一苦労なのだ)、点滴の装置から電源コードの接続部を外し、間仕切りのカーテンを開けたところで足元がふらついた。
「よろっ…」。踏ん張りがきかず、長机に倒れこんだ。でも、長机はキャスター付きなので、和子さんを支えてくれない…。和子さんは、長机ごと思い切りすべってしまった。
「ずるっ!」と数10㎝すべったが、冷蔵庫にぶつかって止まり、何とか転倒は免れた。
「ガンっ!!!」と、びっくりするくらい大きな音がしたので、看護師さんに見つかったかと思い、冷や冷やした。別に悪いことをしたわけではないが、何となく、ばつが悪かったのだ。
夜中に点滴液の交換もあるし、寝相が悪いとチューブがよじれてしまったりもする。その度にアラームが鳴って、看護師さんが来てくれる。
病室には扉が付いていないので、室外の音もよく響く。
夜中にわめくおばあさんがいて、ちょっと迷惑していた。意味のない言葉を大きな声でわめき続ける。「うるさいっ。静かにしろっ!」と露骨に嫌がる男性の患者さんもいたが、おばあさんは聞く耳を持っていないようだ。看護師さんたちも時々、返事をしたりしていたが、どうしようもないと思っているのは明らかだった。
でも、不思議なもので、何日か続けて聞いていると、耳障りでしょうがなかった声もあまり気にならなくなり、逆に「かわいそうな人だなぁ」と思ったりもした。
病院の朝は早い。6時を過ぎると各部屋に照明がつき、人が動く気配がする。
和子さんは、毎朝、窓のブラインドを上げ、早朝の街を眺めながら歯磨きをした。街がだんだん明るくなっていき、通勤・通学の人たちが、足早に横断歩道を通り過ぎるのを見つめる。信号に合わせて、止まったり進んだりするのが面白くて、和子さんはずっと眺めていた。
いよいよ退院の日が決まった。
和子さんは、最後のリハビリに向かう。I先生の作業療法の訓練が終わると、最上階にあるリハビリルームに連れていってくれるという。
そのリハビリルームは、今までの部屋に比べると何倍も何十倍も広く、バレーボールのコートがあってもおかしくないくらいだ。広々と明るく、患者さんも大勢いるし、知らない先生たちもたくさんいた。
N先生が手を振って、和子さんを呼んでいる。言われるまま、最後の屈伸運動や最後の自転車こぎをする。だいぶん調子も上がってきたようだ。N先生も褒めてくれる。帰りは、N先生が、エレベーターで下まで一緒についていってくれた。
最後に「どうもありがとうございました」と礼を言って、握手を交わした。N先生は、笑うとますます美人になった。
午後、病室にY先生が来てくれた。持ってきてくれたテキストで、宮沢賢治の『オツベルと象』を朗読する。時々、突っかかることもあったが、随分すんなり読めた。途中、「悪いやつだな、オツベルは!」などと、和子さんが感想を入れるので、Y先生も笑いながら聞いていた。最後まで読み進めると、意外過ぎる台詞で終わったものだから、「ええーっ? どういうことぉ?」と、いちゃもんをつける。
Y先生も和子さんも、『オツベルと象』は初めてだったので納得がいかず、パソコンやスマホで調べ始めるありさまだ(気になる方は一度、読んでみてくださいね)。そして最後は、Y先生にもお礼を言って、握手をして別れた。
テレビでは、毎日のように、コロナ禍が取り沙汰されている。ついに、S病院でも感染防止のため、面会が完全禁止になった。
退院が近づいたある夜、和子さんがテレビを見ていると、突然、シャッターが下りるように、目の前が真っ暗になった。文字通り真っ暗になって、くずれ落ちた和子さん。意識はあったが、仰向けになってベッドに倒れこみ、ナースコールを押した。
すぐに看護師さんが来てくれた。説明すると、「暗黒視界ですね」と看護師さん。「あんこくしかい?」。何だそれはと聞き返す和子さん。こういう症状のことを言うらしい。体調もとくに何ということもなかったので、ナースコールで呼びつけたりして、申し訳なく思う和子さんなのだった。
2月25日、退院の日がやってきた。
最後の朝食の後、和子さんは着替えを済ませ、荷物を整理して義兄を待つ。また、大阪から来てくれるのだ。
看護師さんの説明を受け、会計を済ませる。いよいよ最後だ。ナースステーションに向かってお辞儀をして、1階の玄関へ向かう。
S病院を振り返り、仰ぎ見る和子さん。こうやって病院を見るのは初めてだった。
そして、玄関から義兄と一緒にタクシーに乗り、和子さんは病院をあとにした。