東京とパリを拠点にスティルライフ(静物画)で活躍する写真家のシバサキフミトさん。前回はシバサキフミトさんが、FITを卒業し、SHU AKASHIさんのアシスタントを努めたところまでお話をうかがいました。今回は、写真家として独立し、日本に帰って来るまでのお話をうかがいます。
ニューヨーク、東京、パリ、シバサキフミト
東京、始動。
シバサキフミト
1998年渡米後、N.Y.にて写真を学ぶ。2005年に帰国。東京にて活動開始。現在、雑誌、広告を中心に活動中。2012年より、パリでの活動も開始。2013年以降、東京・パリをベースに活動中。
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初めてコンペでの勝利
SHU AKASHIさんのスタジオを卒業をして、その後、どうしたの?
ニューヨークでフォトグラファーとして活動を続けるためには学生でいるか、社員としてアシスタントになるか、プロの写真家として認められて「アーティストビザ」や『グリーンカード』を取るかなど選択肢が限られるから、僕はフォトグラファーとしてアーティストビザを取ろうと思ったんだ。
ビザの問題があるんだ。
バイトでお金を稼ぎながら、Phase Oneを1日5万円くらいでレンタルして作品を撮ってたよ。当時「1日5万円」は金銭的にめちゃくちゃ大変だったから、その日はここぞとばかりに作品を撮りまくったよ(笑)
とにかく良いブック(ポートフォリオ)がなければカメラマンにはなれないと思ってたから1年くらいはそういう生活が続いたね。
はじめて結果が出たのは?
2003年に、ROLEXなどの高級腕時計を扱う東京の時計販売会社の広告コンペに通ったんだ。
それが初めての大きな仕事になったんだね。
そうそうスタッフがNYに来てNYで撮影したんだよ。本当に第一歩を踏み出したばかりだけど、やっぱり結果が出ると、今進んでいる道で間違いないんだなと感じることができたよ。
東京の街で、その広告よく見たよ。いつのまに!って驚いたよ。
東京へ帰る
それで、アメリカでアーティストビザ取れそうで、東京とニューヨークを行き来していたんだ。
それなのに、なんで日本に帰ってきたの?
まだカメラマン志望者だった頃にニューヨーク78丁目の寿司店「Sushi of Gari」※で夜働いてたんだ。
オーナーシェフのガリさんからは、プロとしての見せ方とかこだわりとか、この店でも本当に色々大切なことを教わったよ。ウエイターから始めて最後はマネージャーとして働いたんだけど、大人気店だったからお給料もすごく良くて将来どうしようか本気で悩んだよ(笑)
そこで沢山の人と知り合ったんだけど、その中にお客さんとして来ていた東京のモデルエージェンシーの経営者のご夫婦がいて、すごく親しくしていたんだ。それで日本に一時帰国した時に挨拶に言ったんだよ。
※Sushi of Gari= 1997年に杉尾雅利氏がニューヨーク・マンハッタンのアッパーイーストサイドに1号店を開店。ネタごとに最適なソースやトッピングを創る圧倒的な個性と、美しさを誇る創作寿司で、世界的名店に。現在2019年現在、ニューヨークで4店舗営業。 HP
写真家として?
いや。Sushi of Gariではマネージャーだったし写真を撮っているなんて言ってなかったから、友人として会いに行ったんだよ。ふたりは東京でDonna Modelsというモデルエージェンシーを経営していたんだ。その時に初めて写真を撮っていることを話したんだよね。
それが縁だったんだね。
そうそう。それで、ふたりがブックを見てくれて、「じゃあ、小さい仕事がいくつかあるから東京にいるなら撮ってみる?」って言ってくれて撮らせてもらったんだ。
この企画の写真撮っている土屋くんがアシスタントしてくれたやつだよ。そうしたら、次から次へという風に仕事が繋がっていった。僕はそれ以来ずっとDonna Models所属なんだ。
ニューヨークに帰れなくなって、思い残すことはなかった?
全くなかったといえばウソになるけど、仕事が目の前にあるってことは僕にとっては本当にチャンスだったしフォトグラファーとして仕事でスケジュールが埋まるなんて当時は夢のようだったよ。
でも自分のやりたい撮影方法を実現できるデジタルスタジオもなかなか無くて、機材も手に入りづらいし、専属のアシスタントもいないから日本のスタジオの使い方もよくわからなくて、すべて手探りだったから、その頃は必死だったね。
その頃、四ツ谷のSTUDIO d21で撮影をよくしていたね。
そうSTUDIO d21は、すごくサポートしてくれたよ。当時としては珍しくレンタル機材としてPhase Oneをたくさん持っていて、レタッチするスペースも貸してくれた。デジタルのワークフローを理解するスタッフも育ててた。
なんで東京で受け入れられたんだと思う?
デジタルのスピード感が新鮮だったんだんじゃないかな。撮影時間も納期も圧倒的に短くなった。僕らの世代はちょうどフィルムとデジタルの両方を仕事として見た最後の世代だと思うんだけど、だからこそADやクライアントの意向にも新しいやり方で柔軟に対応できたんだと思う。それはまだフィルムが主流だった日本では相当インパクトあっただろうね。
それから日本での活躍がはじまるんだね。続きは次回にしよう。